休日

休日だった昨日は、ずっと寝てました、私が。ちなみに写真は拾い物です。
きっと、うちのネコは毎日ずっと寝てるんだと思うんです。
きっと、うちの犬だって毎日ずっと寝てるんだと思うんです。

家に帰ると、「えっ」って顔するんですよ、うちの犬。それは完全に寝ぼけまなこで。
あれ、犬ってさ、すぐれた聴力やら嗅覚やらで飼い主のご帰宅を何キロメートルも前から察知して、そわそわしてたりするって、TVで観たことあるんだけど、あなたはそういうことしない訳?

家に帰ると、のび~~っと一発、それでにゃあにゃあにゃあにゃ言いながら、なにするかと思いきや物凄い勢いでトイレに入り、うんちするのやめてくれないかしら、ネコ。
なに、ひさしぶりにカラダ動かしてモヨオしちゃったの?なに、人のこと見つけて動いたついでに、コトも済ますの?
どっちにしても、昼間やれよ。俺がいない時に済ましとけよ。家に帰った途端、部屋中が臭うんだよ。
ちっとも、「あ~家に帰ってきてリラックス」気分が味わえないんだよ。

そうこうしてるうちに、急に散歩つれてけと騒ぎ出す犬。なに、いまさら?目が覚めたの?気付いたの?俺に。
はぁ、散歩いったあと、ネコトイレの掃除だな。
なんだかちっとも癒やされねぇぞ、犬猫ライフ。
猫トイレを掃除している最中、
風呂に入れというのに入らない娘に怒鳴ってしまう。
掃除が終わって、お布団を見ると娘が眠ってしまっていた。
怒った後に、寝られてしまうと後味が悪い。
どうにか起こして、笑いあって、眠ってほしいと思うが、それこそ親のエゴというもの。
もうほとんど夢の中の娘に、おやすみ、とやさしくつぶやき、毛布をかけた。
ピアノを弾いていた娘。コーヒー飲みつつ、ピアノに関心を払わないでいたら、いつの間にか娘の演奏が終わっていた。
凄い勢いで娘が、
「ねぇ、どぉーして『パチパチパチッ』ってやってくんないのぉ、もうこれから、わたしピアノ弾かないからねっ!」
と怒られた。ちょちょ、それって、どーなのよ、とは思いつつ、
「も、いっかいお願いします」と言って、今度は最高の拍手をしてあげました。

娘:ガソリンスタンドの人がひと目で私のこと好きになっちゃったみたい。
どうしよう♪・・・


妄想力はセカイを救う。


娘は、現在4歳。
4歳の平均身長よりも大きめ。
だから、なかなか最近では抱っこというのも一苦労。
親は親とて、鍛え上げた体でもないからに。
それでも、やっぱり、4歳にして抱っこは、頻繁にねだられる。

「抱っこ券」がないとダメだからね。
というと、すかさず、紙の切れ端に「抱っこ券」を作ってくる。
後ろにはパパの「偽造」サイン入り。実に凝っている。

「はい、抱っこ券でーす」
渡されれば、そりゃ、従うしかない。
「何分抱っこ券ですか?」
「1分。」
「え、1分でいいの?」
「うん!」
きっと、僕とか嫁とかが普段、抱っこするときに「1分だけね」と口ぐせのように言っているからだろう。
ちゃんと、「抱っこ券」に「1ふん」って書いてある。

それで、1分だけ抱っこして、娘は満足そうでした、

という話で終わるのなら、子育ては単純だが、
その「1分」を、何度も何度も繰り返されるうちに、
さすがに、腰も、悲鳴をあげて、

そのうち、やさしさを気取っていたパパも、走って逃げ出すのでした。
この間まで、人のこと見つけると、ベタベタまとわりついていた知り合いの子が、
急に、姿勢を正し「こんにちは」なんて言い出す。
あっという間に、“自分”と“他人”との境界線がハッキリとしてしまい、
なんだかそれはやっぱりどこか、さびしいな、と感じてしまう。
誰彼かまわずベタベタまとわりつくのなんて、もう自分が「酒癖の悪いあまり評判の芳しくないようなオヤジ」にでもならない限りできないことになっちゃうのにな。
そう思ったら、よけいにさびしくなって困った。
すきなこと、しんじてること、ここちよいこと、たのしめること、おもしろいこと、しかやらないことにしてるため、本当に毎日が楽しい。
気がついたらまた朝がやってきてあたらしい一日が頬ずりしてくる。
空は青い。風はあたたかい。雲は流れる。星は瞬く。人生は愉快。
今日は、娘とふたりで、お昼ごはんを食べていました。
暖房をつけた、すぐそばで、いっしょに、
昨夜のクリスマスパーティの残り物を食べていました。

ふざけ合いながら、なんだかんだやってると、ふと、娘がこんなことを言い出しました。


「こうしてると、しあわせだなあってかんじるね。」
「パパ、わたしにであえてよかったね。」
「かんしゃしなきゃね。」

「どこからパパに会いに来てくれたの?」

「かみさまがそうしてくれたんだよ。」

「それじゃ、神様にありがとうって言わなくちゃね。」

「うん、そうだよ。」
「かみさまはいつもわたしのことみていてくれるんだ。」

「そうか、じゃ、ありがとうって思ってれば神様に通じるね。」

「うん、そぉだよ。」


生きていく中で、生活の中に、何気なく、こんな瞬間が転がってるなんて、
思いも寄らなかった。
すてきなすてきなクリスマスプレゼント。
ほぼ日の谷川俊太郎質問箱に寄せられた質問とその解答が、糸井重里さんの記事に取り上げられてました。


質問:
どうして、にんげんは死ぬの?
さえちゃんは、死ぬのはいやだよ。(6歳)
(追伸:これは、娘が実際に母親である私に向かってした質問です。
目をうるませながらの質問でした。正直、答えに困りました~)


谷川俊太郎さんの答え:
ぼくがさえちゃんのお母さんだったら、
「お母さんだって死ぬのいやだよー」
と言いながらさえちゃんをぎゅーっと抱きしめて
一緒に泣きます。
そのあとで一緒にお茶します。
あのね、お母さん、
ことばで問われた質問に、
いつもことばで答える必要はないの。
こういう深い問いかけにはアタマだけじゃなく、
ココロもカラダも使って答えなくちゃね。


世の中の問題のすべてに言葉で返す必要はないのだ、と。
一緒に抱きしめて、一緒に泣いてあげたっていいのだ、と。


今夜は、
ぼくも、
抱きしめて上げられる人間でありたいと願いました。

この間、娘と二人、家で夕食。(とはいっても、娘は夕食済み)
「ちびまるこちゃん」のドラマを観る。
終盤、まるちゃんが喧嘩していた親友と仲直りして号泣している場面。
まずいな、と思っていたら、まんまと娘も号泣。

作りたての野菜炒めを、ビールと一緒にぐわぁっと食べようとしていたまさにその瞬間に、それ。

「パパぁあ゛ぁあ゛・・・・・」
と抱きついてくる娘。
え、え、ちょっと、野菜炒め、出来立て、だし、な、なんで、
た、食べらんないよぉぉぉ。

とはいっても、むげに、抱きついてくる娘をほおり投げるわけにもいかず。
「パパぁ、ずっとずっと、パパのこと好きだからねぇぇ、びぇ~~ん・・・」

あ、はい、わかった、わかったから、ね。ちょ、ちょっと、野菜炒め、が、その冷めると・・・